樹海を取材してたどり着いた、そこで死ぬことを勧めない理由【村田らむ×小平×yuzuka】

本記事には自死に関する描写が含まれます。心身が不安定な方はご注意ください。

死にたくなった時に来たくなる森。山梨県に位置する青木ヶ原樹海。別名、スーサイドフォレスト。そこは古くから「自殺の名所」と呼ばれ、自殺志願者にとっては特別な意味を持つ場所だ。

巷に流れるオカルト話の中にたびたび登場するその場所には都市伝説も多く、

「コンパスが狂って出られなくなる」

「死体があちこちに転がっている」

「自殺者を狙う殺人鬼が潜んでいる」

なんていう、出所のわからない、だけど恐ろしい噂話を聞くことも多い。そういった影響もあって、樹海は「なんとなく怖い場所」としてのイメージが定着している。

実は私も、過去に取材リサーチの一環で夜の青木ヶ原樹海を訪れたことがある。

都内から車で約4時間。拠点となる駐車場は、自殺防止のために設置された不気味な青い街灯に煌々と照らされ、いたるところに監視カメラが設置されていた。

その光景がかえって薄気味悪く、「嫌な場所だな」と感じたのを覚えている。

そしてその時、駐車場には、ずいぶん前から放置されているように見える一台の車が残されていた。

「この車の持ち主はどこへ行ったのだろう」

そう考えながら、鬱蒼と茂る木々の奥に思いを馳せてみる。わざわざこんな場所で亡くならなくてもいいのに、と思った。

そしてふと、疑問に思う。

樹海での自殺といえば、「誰にも見られず静かに逝ける」「美しい」「他人に迷惑をかけない」というイメージが強いが、果たしてそれは事実なのだろうか。

同時に、猛烈な興味が湧いた。なぜ青木ヶ原樹海は、これほどまでに自殺志願者を惹きつけるのだろうか、と。

死にたくなった時に来たくなる森、青木ヶ原樹海。

そこは実際に、自殺に適した場所なのか。

その真相を探るべく、今回は樹海ライターとして名高い村田らむさん、そして樹海での死体探しが趣味だという小平さんに案内していただき、実際に樹海を巡りながら、「樹海での自殺の現実」を取材した。

樹海の入り口は、観光客でにぎやか。「死ぬ気」が結構そがれる

都内で村田らむさんと合流して車で山梨県へ向かい、樹海の駐車場で小平さんと落ち合う。まず驚いたのは、深夜に見た駐車場と、昼間に見るその周辺の雰囲気とのギャップだ。

夜に訪れた際は、樹海一帯がいかにも「自殺の森」というおどろおどろしい空気に満ちていたが、昼間の景色はまったく別物だった。きっと、自殺願望を持って訪れた者たちも同じイメージを抱くだろう。神秘の森というイメージを持ってバスを降りると、そこは意外にも観光地の顔をしているのだ。

樹海への主要な入口となる「富岳風穴」付近はとくに観光客で溢れ、死ぬためにはそこから人の流れを縫って、脇道を見つけなければならない。

それもそのはず、青木ヶ原樹海は国の天然記念物にも指定されている観光名所である。訪れる人の多くは「死ぬこと」ではなく、トレッキングが目的だ。色とりどりのウェアに身を包んだグループが、談笑しながら森へと足を進めていく。

正直なところ、もし自分が「死ぬため」にここへ来ていたら、この光景だけで興ざめしていただろうな、と思う。静かに自分と向き合いながら深い森へ入っていく……というイメージとは、あまりにかけ離れていた。

では、自殺志願者は人目を避けた脇道から森の中に入れるのかといえば、そうでもないらしい。

後述するが、樹海は足元が非常に不安定で危険なため、知識もなしにそのへんの脇道からズカズカと奥へと進めるような場所ではない。だから命を絶とうとする多くの人も、あのにぎやかな登山客に紛れ、「富岳風穴」付近の入り口から森へと足を踏み入れる必要がある。

「それにね、ボランティアの人がすごいんですよ」と、らむさんが苦笑いする。

樹海の入り口付近では、自殺防止のためのボランティアスタッフが目を光らせ、樹海付近で不審な人物がいないかを常に監視しているらしい。

「見張りがいない日はない」と、二人はキッパリと言い切った。

「彼ら、昼間の路線バスが通っている時間はずっと居るんですよ。樹海に自殺しに来る人はだいたいバスで来るんですけど、一人でバスを降りてくる人がいたら、その動きをじーっと見ているわけです。

そして、ハイキング客に見えない格好の人には片っ端から声をかける。例えば、『何時にご飯を食べて、何時に帰るの?』って、細かい予定を尋ねるんですね。死にに来ている人は往復の予定なんて考えていませんから、帰りのバスの時間なんて、答えられない。

そうなると、もう解放してもらえません。『仲間と合流するから』と言えば『じゃあここで一緒に待ちましょう』と居座るし、自殺の意思があると分かれば警察に引き渡したり、『帰る』と伝えても、バスに乗せて送り出すまで見届けたりしますから」

このボランティアスタッフの対応がなかなか強引なようで、ふらふらと死に場所を求めてやってきてもまずはその入り口で足止めを食らい、最悪は警察に連行されることになるのだそうだ。

樹海で死ぬなら、「死体愛好家」に晒される覚悟が必要

それにしても地方に住んでいるという小平さんは、「死体を探すためだけ」に山梨へ訪れ、頻繁に樹海へと足を運んでいるというからたまげる。それも、ほとんどの場合はたった一人で、だ。その行動力には、凄まじい執念を感じざるを得ない。

彼の腕にあるスマートウォッチには、登山者用の地図がダウンロードされていた。覗き込む私に、「これがあれば、たとえ電波が途切れても現在地が把握できるんです」と、教えてくれる。ほう、それは確かに便利である。と、地図に感心していると、地図上に打たれた大量のピンが気になって、これは何の目印かと尋ねる。

「これはね、これまでに死体があった位置を記録しているんですよ」

小平さんが事もなげに、あくまでにこやかにそう答え、私は少し、小平さんのことが怖くなる。

ところで、「死体を探す」といっても、そう簡単に見つかるものなのだろうか?

樹海は四方4kmほどと、決して広大すぎるわけではないが、その形状は極めて独特だ。一般的な山のような激しいアップダウンはないものの、地面は滑らかな溶岩流の上に苔が張り付いており、特にこの日のような雨天時はつるんつるんと滑り、しょっちゅう足を取られる。

一見、地面だと思って踏み込んだ場所が、実は深い穴の上に苔が被さっているだけだった、ということも珍しくなく、そういう場所に安易に足を踏み出せば足首までずぼっと穴にはまり込み、容易には抜けなくなってしまうのだ。

小平さんが迷いなく突き進んでいく先は、まさに原生林そのものだった。整備されたコンクリートの遊歩道から、ふと脇道へ逸れた瞬間、そこには手付かずの自然が広がっている。いくら「そこまで広くはない」と言ったところで、この入り組んだ樹海の中をくまなく探すのは、至難の業であるはずだ。

となると、「樹海はだれにも見つからないで死ねる」というのは、あながち間違いではないのでは?と尋ねてみると、そうでもないらしい。

「今年(去年)も数体は出ていますね」

小平さんが、淡々と語り始める。

「もう結構、進んできたと思うでしょ? でも実際には、あの遊歩道から数百メートルも進んでいないんです。自殺志願者の多くも、『奥まで行こう』と思いつつ、結局そこまで深くは入り込めない。

だから多くの遺体は、遊歩道からわずか数百メートル圏内で見つかります。なんなら、遊歩道から見える位置で首を吊っているのが発見されて、登山客が通報するケースもよくあるくらいですから。

去年は、遊歩道沿いの浅いところを重点的に探したら、それだけで9体も見つかりました。その辺りで遺体が回収されるところを実際に見たこともあります。だから、見つからないと思って場所を選んでも、案外僕らみたいな人間にも見つかっちゃうんですよね」

実は小平さんやらむさんに限らず、樹海には多くの「死体愛好家」たちがやってくる。

その目的は様々で、ただ興味本位で死体が見たい人もいれば、写真を撮るためにやってくるプロの写真家もいる。

「樹海を探索する人の中には、死体に興味がある人もいれば、遺書や残置物から亡くなった人の感情を想像するのが好きな人もいます。僕の場合は体に興味があって、死ぬまでの『変化』に魅力を感じて観察しているんですよね。人間が死んでいく過程を生きたまま見られる。僕も将来、こういう変化をしていくんだな、というのを継続的に観察しているんです」

だから、小平さんは見つけた死体の位置を地図にピン留めし、定期的に「鑑賞」に訪れる。死体を「アート」として捉える感覚、だろうか。

それ以外にも、時には死体に「危害を加える目的」の人もいるらしい。

「『樹海を案内してくれ』と言われて理由を聞いたら、『心臓に性的な興奮を覚えるんだよね。樹海の死体なら、切り開いて心臓を奪ってもいいよね』って。断りましたけど、他にもそういう目的の人はいるのかもしれないですね」

ちなみに小平さんは、死体を見つけるとそのすぐ傍らでおにぎりを食べるのだという。小平さん自身は物腰の柔らかい、落ち着いた印象の男性だが、らむさんいわく

「死体を見つけた時は、明らかに興奮しているのが伝わってくる」とのこと。そのギャップには、やはり底知れぬ怖さを感じる。

しかし、彼らの興味が物凄く特殊かというと、実はそうは言えない。現実として「樹海の死体」という存在が一部の人々の知的好奇心を激しく揺さぶっているのも事実だ。

その証拠に、らむさんと小平さんが開催する樹海の死体をテーマにしたトークイベントは、毎回大盛況だという。客層は特に女性が多く、中には名前を付けられた「人気の死体」まで存在し、グッズ化までされている。眼窩からウジが湧き出す映像を皆で眺めながら酒を飲むというから、その光景には驚くほかない。

趣味嗜好は人それぞれだと理解しつつも、少なくとも「誰にも見られず、静かに逝きたい」と願ってここへ来る人々にとって、この現実は強烈な嫌悪感を抱かせるものだろう。

自分の亡骸が写真に収められ、遺書を読み解かれ、勝手に名前を付けられ、時にはグッズにまでされる。もし樹海で命を絶つのなら、そうした事態に晒される覚悟が必要なのかもしれない。

樹海で死ぬ人は、「思いつめた人」が多い

それでは、実際に樹海で亡くなった人たちに何か共通点はあるのかと、らむさんに聞いてみる。

「男女比は10対1くらいで、圧倒的に男性が多いですね。ほとんどの人は、『死ぬための道具』を持ってきます。『樹海に来るだけで死ねる』みたいに思ってる人がいるのですが、ただの森ですからね。実際には道具がないと死ねないんです。飛び降りスポットのように、そこに来れば死ねると思っていると、苦労します。冬に来て凍死を待つために睡眠薬や痛み止めを持ってくる人もいますが、死ぬまでにはずいぶん苦しむと思いますよ」

樹海は何も、来るものを静かな死にいざなう魔の森ではない。当たり前ではあるが、ただフラッと訪れるだけでは、当然何も起こらない。

「あとは、交通費や死に場所までの地図など実用的なものはもちろん、最後に読む本や、最後に楽しむための食事、軽食を持ってきている人もいます。心を落ち着けるためのお酒や睡眠薬を持ってきている人も多いですね。あ、それから、直前にエナジードリンクを飲んでいる人がすごく多いんですよ」

私が、「今から亡くなるという中でエナジードリンクを飲むのが意外だ」と驚くと、「死ぬために勢いをつけるんでしょうね」と、らむさんが答えた。

他にも、多くの人は数時間、あるいは数日分にわたって「最後に考える時間」を過ごすための荷物を準備してくるようだ。逆に、荷物が一日分しかない場合は「突発的に決めて、すぐに死のうとしたのだな」と感じるという。

稀なケースだが、何も持たずにふらりと樹海へ現れ、過去に誰かが命を絶った際に残されたロープにそのまま首をかけ、他人の頭蓋骨の上で息絶える人もいるらしい。だが樹海の場合、そこまで突発的な死に方を選ぶ人は、ごく少数に限られる。

小平さんが、何かを思い出すようにゆっくりと語る。

「鉄道自殺などは衝動性が高い。今日が嫌だから今日飛び込む、という感じの人も多いですよね。でも樹海は、ここに来るまでに時間がある。下調べをして、ちゃんと準備をしてきている感じがするんです。だから、すごく思いつめている人が多いんだなという印象は、いつも持っています。

それから、すごく真面目というか、優しい人が多いというか。誰にも見つからない前提で亡くなっているので遺書はない人が多いですが、『見つけてくれた人へ』という手紙を、ビニールで丁寧に包んで置いている人も時々います。『部屋を汚したくないから』『誰にも迷惑をかけないから』と死に場所に樹海を選び、『処理費用の足しに』と、お金を置いているケースまである。まじめすぎるんですよね。まじめすぎて、生きづらかっただろうなって」

時々樹海で対面する遺体やその遺留品を見て、「この人は、そりゃあ生きづらかっただろうな」と感じてしまうことも、あるらしい。

「チンするご飯をそのまま持ってきて、あたためもせずに食べている形跡があったり。最後の晩餐なんだから、もっと考えればいいのにって、つい思ってしまう。

アイドルの雑誌一冊だけ、とか、アニメの抱き枕だけを持ってきて亡くなっていた人もいました。そういう人たちを見ると、『もうちょっとうまくやっていけば、楽しい生き方があったんじゃないか』『楽しみは見つけられたんじゃないか』って、どうしても思ってしまいますね。不器用で、社会に溶け込めなかったのかな、と。

頼れる身寄りもいなくてしんどかったんだろうなと、勝手ですけど、想像せざるを得ないんです」

樹海にある「死体」は、美しいのか?

さて、「樹海での自殺」というと、「死体が美しい」というイメージを口にする人がいる。

たしかにコンクリートジャングルの中のアパートで朽ち果てるよりは、「自然にかえっていく」というイメージがあるのはうなずける。

では、実際に多くの死体を目にしたふたりにとって、樹海での自殺死体は「美しい」といえるのか。小平さんに聞いてみると、静かに首を横にふった。

「きれいな死体なんて、ありませんよ。ほぼ確実に汚く朽ち果てて、土に還ります。当たり前のことですよね。だってベランダに生肉を置いておいたら、腐っていきますよね? 人間も同じです。

夏場なら、目の周りや口の周りに蝿が卵を産み、何百匹というウジが体に入り込んで中から溶かしていく。腐った汁が流れ、タンパク質も皮も骨も朽ちていく。

およそ20年かけて、大きな骨ごと崩れていくイメージです。もちろん最終的には土になりますが、最初の一年は『汚い』といえるでしょうね。

ちなみに冬は蝿が来ないので、冷凍保存やフリーズドライ状態にはなります。だけど春になるとまた溶け出すから、結局同じ道をたどる。血や肉のにおいがすると、イノシシやクマが通りかかって食い散らかされていくので、ぐじゃぐじゃになることもあります。経過のどこかで、必ず汚くなるんです」

ちなみにこれまで見た中で、一番「つらい死体」はどんなものだったのかと、聞いてみる。

「除草剤を飲んで亡くなっていた心中のおじいさんとおばあさんですね。片方は胸をかきむしり、もう片方は手に入れ歯を握りしめ、口を大きく開けて歪んだ表情で死んでいました。あれは、本当に苦しそうだった。

樹海は松本清張の時代から自殺の場所とされてきましたが、年齢層が高い人は知識がないので、昔ながらの毒物や入水といった手段を選びがちなんです。毒として除草剤を選んだ人は本当に苦悶の表情を浮かべていましたね。

『完全自殺マニュアル』以降は首吊りが広まり、首吊り死体が増えました。除草剤を飲んで亡くなった人たちに比べれば首吊りの遺体はほとんど目も開いていないし、どこか納得して亡くなっている感じがする人も多いです。でも、真相は分かりませんね。

それから、『きれいに死にたい』という人は多いのか、荷物の中に大量のおむつを持ってきて、おむつを履いて亡くなる人もいます。あとは、マスクをしたままだったり。死んだ後に排泄物が出たり、舌が出たりするのを見られたくない、迷惑をかけたくないという気持ちがあるんだと思うんですけど、最後までそんなことを気にしても意味がないのにとは、思ってしまいます」

誰にも見られない場所でと、死ぬ時まで他者を気に掛ける。思いつめているのに、まだ他者に気を遣うその形跡に、胸がぐっとしめつけられる。その人たちは生きている時も、きっとそうだったのではないか。他者を気遣いすぎて、自分を犠牲にしてしまう。

一方で、死にきれずに帰る人も少なくないという。

「衰弱死しようとして、諦めて帰る人も多いと思います。水分不足でも数日は生きてしまいますから、苦しい状態が長く続く。『こんなに苦しいなら帰った方がいい』となるんです。

一度、首を吊ろうとして、でも足台を蹴る勇気がなくて、縄に首をかけたまま生きている男の子と出くわしたこともあります。仲間が死体だと思ってのぞき込んだら生きていて、目があったんです。どうやら薬を飲んで意識も朦朧としている状況で、怖くて立ちすくんでいたみたいですね。

僕は自殺を無理やり止めようとは思っていないので、『どうする?』と聞きました。すると『助けてほしい』と泣き出したので、通報しました。こういう人は、無数にいるだろうなと思います」

その青年は、たまたま通りかかった死体探しの小平さんに、死体になる前に命を救われた、ということになるだろう。それはまた皮肉なことではあるが、もしも小平さんと出くわしていなかったらと想像すると、それも怖い。

悩んで「やめよう」と思ったのに足をすべらせてしまうとか、「やっぱり帰ろう」と思ったのに半ば遭難状態で衰弱してしまうとか。それに、小平さん以外の悪意ある「死体愛好家」と出会し、後ろからぽんっと背中を押されたら?他人の手によってその男の子が最期を迎えたところで、誰がそれに気づくだろう。

そういった見えない「事故」はいくらでもありそうだ。

「もし奥まで行って『やっぱり死にたくない』と思っても、4キロ四方ですから明るくなるまで待てば帰れます。こけて骨でも折らない限り、帰ろうと思えば帰れる。悩んだら引き返す勇気があるといいと思いますね」

樹海に通い続けた「死体探し」の小平さんが、「樹海で死にたい人」へ思うこと

取材の最後に、樹海で数多くの死体と向き合ってきた小平さんに、「ここで死のうとする人に対してどう思うか」という率直な問いをぶつけてみた。

美しい森での死を肯定するのか、あるいは引き留めたいと願うのか。死の現場を誰よりも見てきた彼の言葉に、強い興味があった。

「樹海で死にたいと願う人に何かを伝えるとしたら、どんな言葉が思い浮かびますか?」

その問いかけに、小平さんは少し考え、そしてぽつりぽつりと、静かに言葉を紡ぎ出した。

「樹海で亡くなった人たちを見ているとね、『思い詰めちゃったんだろうな』と思うんです。自殺の理由というのは、端から見れば大抵が些細なことに見えます。お金がないのなら、小さなアパートに引っ越して生活保護を受ければいい。人間関係だって、恋人と別れたなら別の楽しみを見つければいいし、新しい繋がりを作ればいい。病気だって、治療して少しでも長生きできるなら、今すぐ死ぬよりはいいことじゃないかと、周囲は思います。

でも、亡くなった人たちはそうしなかった。それは、生き延びることよりも『死ぬこと』に価値を見出してしまったということです。無数にある選択肢の中から、一番後戻りできない方法しかないと思い詰めてしまった。

でもね、本当にそれしかなかったのかな?って、僕は思ってしまう。

人はみんな、想像するほど素晴らしい人生ばかりを歩んでいるわけじゃありません。『食った飯が旨い』『飲んだ酒が旨い』『観たテレビが楽しかった』。そんな小さなことに価値を見出しながら、何とか生きている。仕事が楽しくて仕方ないという人なんて、そうそういない。みんな、嫌々働いて、でも帰って飲む酒が旨いから生きているんです。

理想の生き方をしている人は、ほんのわずか。みんな一度は『こんな人生なんて』と思うかもしれないけれど、だけど死ぬことと天秤にかけた時、多くの人はそれでも『少しだけ美味しいごはん』を選ぶ。

ここで亡くなった人たちは、それを選べなかった、それが悲しい。

生きていれば、美味しいものを食べられるかもしれない。美味しいお酒を飲めるかもしれない。でも、死んだら何もできない。そう考えるとどんな人にだって、別の選択肢はあったはずです。彼らがそれを選べなかったのが、もったいない。

もし、今まだ生きているという人は、もう少しだけ立ち止まって考えてみたら、他に手段があるのかもしれないって、彼らを見ていると、そんな風に思いますね」

樹海へ行って感じたこと

雨の中、樹海を散策していると、いくつかの「人が死んだ跡」に出会った。

そのうちのひとつは、遺留品のそばにロープがあり、ロープをかけた木に寄りかかるような形で大腿骨の入ったズボンが残り、その下にはゴロンと頭蓋骨が転がっているという生々しいものだった。

その亡骸のすぐそばに大きな岩があったので、なんとなく登ってみる。するとそこには、彼が最期に過ごしたであろう形跡が遺されていた。

小さなショルダーバッグ。その中には、睡眠薬の空き殻。転がる日本酒が入っていた空き瓶。そのすぐ傍らには、MP3プレイヤーとイヤフォンが添えられている。

ここで最後の音楽を聴きながら、終わりの時間を過ごしていたのだろうか。

静かな風の音、鳥の声、頬を撫でる空気。

岩の上に座り、彼が最期に見ていたであろう景色を、自分の目にも映してみる。

目の前に広がるのは、広大な青木ヶ原樹海。

木々が鬱蒼と生い茂り、木漏れ日が降り注ぐ、息を呑むほど美しい光景。

もし彼が、この場所に座って思いを馳せることを「人生の締めくくり」として選んだのだとしたら。

それを単なる「悲劇的な最期」だと、私には決めつけることができなかった。それほどまでに、青木ヶ原樹海は美しい場所なのだ。

けれど同時に、おせっかいながらに思ってしまう。

この場所に辿り着き、岩に座って、お酒を飲むことができる気力があるのなら。その「最期の日」は、その日でなくてもよかったのではないか、と。

生きることが、耐え難いほど辛い日があったのだろう。私たちには想像もつかないような、終わりにするしかない切実な事情もあったのかもしれない。

けれど、小平さんの言う通り、「少しだけ美味しいごはん」を目標にして、この景色をただ目に焼き付けて引き返し、もう一日だけ生きてみたとしたら。そこで別の選択肢を見つけることができていたら、もしかすると何かが変わったかもしれない。そしてこの景色を「良い思い出」として、誰かに語り継げたかもしれないじゃないか。

どうしても、そんな風に思えてならないのである。

さて、終わりにようやく結論を述べたい。

青木ヶ原樹海は、確かに神秘の森だ。

しかし、「自殺に適した場所か」と問われれば、やはり疑問が残る。

多くの場合、遺体は誰かに発見され、最悪の場合は好事家の「酒の肴」にされてしまう。山梨県民にとっては樹海が自殺率を押し上げていることは長年の悩みの種であり、「誰にも迷惑をかけない死に方」かと言われれば、決してそうではない。最近では付近でクマの目撃情報もあり、安楽に死のうとして、野獣に襲われる恐怖に直面する可能性だってある。

ということは、もしも樹海へ向かう理由が、「静かに、楽に、綺麗に死ねるから」だというのなら、それは考えを改めたほうがいいだろう。

少なくとも、「クマに襲われた末に、遺体を見世物にされる」よりはマシな一日は、生きてさえいれば、たぶんいつか訪れるはずだから。

取材/文 yuzuka


協力/
村田らむ
小平


写真提供/小平


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この記事を書いた人

エッセイスト/脚本家/作家。
ジャーナリスト、インタビュアーとしても活動し、現場に身を置くフィールドワークを重ねることで、人間の光と闇の両面を描き続けている。元・精神科看護師であり、風俗嬢としても5年ほど夜の世界に身を置いた経験を持ち、自身が自死未遂を乗り越えてきた当事者でもある。トー横の若者や夜の街、生と死の狭間にいる人々と向き合い続ける中で得た実感から、「誰も置き去りにしない言葉」を探求している。

著書に『埋まらないよ、そんな男じゃ。』ほか3冊。原作・脚本として『五反田ほいっぷ学園』『愛の炎罪』『今、晒してます』『沼堕ち』などを手掛ける。特に『愛の炎罪』では、Renta!ショートドラマ・アニメ大賞2025 総合大賞を受賞。フィクション/ノンフィクションを横断しながら、人の心を深く動かす言葉を紡ぐことをモットーとしている。

オーナーを務めるオンラインサロン、「yuzukaのオトナの保健室」では、性愛や人間関係など、オトナならではの悩みに仲間と向き合い前を向くコミュニティ作りを行なっている。

また、ひとつの幸せのかたちとして、「一度誰かと幸せになることを諦めた人」に向けた少人数制結婚相談所cotononeも運営。恋愛をこじらせた男女やシングルマザーへのサポートを中心に行っている。(現在若干名会員募集中)