「僕の父は、母を殺した」非行にホームレス生活、自殺未遂。大山寛人さんが、「それでも、生きてゆく」と決めた理由

「死にたい」という言葉を否定せず、その重みを抱えたままいかに今日をやり過ごすか。本連載では、一度は「死にたい」という気持ちに襲われながらも、その気持ちに打ち勝ち、生きることを決めた人々の足跡を辿る。

第一回のゲストは、大山寛人さんだ。1988年、広島県に生まれた彼は、かつて「幸せな家庭」の中にいた。しかし14歳の時、その日常は音を立てて崩壊する。2000年に起きた実母の死、そして1998年の養父(祖父)の死。それらはすべて、保険金目的で実父が仕組んだ殺人事件であることが発覚したのだ。それだけではなく、仲の良かった父が当時少年だった彼を、アリバイ作りに利用していたという事実と直面することになる。

この衝撃的な事実を転校先のテレビニュースで知った彼は、人殺しの息子という烙印、親戚との確執、そして孤独なホームレス生活を経験することになる。万引きした市販薬860錠を飲み干すといった凄絶な自殺未遂を繰り返しながらも、彼は現在、自身の半生を語る講演活動や、偏見のない風俗業界での仕事を通じ、自らの「居場所」を築いている。

被害者家族であり、加害者家族である大山さん。

彼がどのようにして憎しみを捨て、「それでも、生きてゆく」と思うに至ったのか。その真実を聞いた。

目次

アリバイに使われた少年。母親が殺された日の、海を照らすパトカーの赤色灯の記憶

yuzuka:事件が起きる前の幼少期、どのような少年だったかお伺いできますか。

大山:当時は、母親が勉強にかなり厳しく、父親が甘やかしてくれるという、アメとムチのバランスが取れた家族でした。お金にも余裕があり、年に3回は必ず旅行に連れて行ってもらいましたし、土日は大好きな釣りに父と行く。本当に幸せな家庭だったというか、今考えてみれば周りよりも裕福で贅沢な暮らしをしていたと思います。

yuzuka:そこから実際に事件が起きた日の話を、大山さんの口からもう一度説明していただけますか。

大山:事件当日は小学校から帰宅後、夜7時頃に家族で食事をし、お風呂に入り、テレビを見て、母が決めた就寝時間の9時に寝室へ行きました。

すると日付を越えた深夜1時頃、眠っていた僕のもとへ父が来て、「お母さんとお酒に酔って、『夜釣りに行きたい』と言い始めた。ひろともついてこないか?」と誘ってきたんです。僕にとって夜釣りは憧れでした。普段は母が「夜釣りは危ないからダメだ」と猛反対していたからです。だから、母が酔ってそう言い出したのは「またとないチャンス」だと思い、飛び起きて父と母が乗る車に乗り込みました。

助手席では母が眠っていて、父には「寝かしておいてあげよう」と言われました。道中、何度も起こそうとしたのですが、父が「港に着いたら起こそう」「魚が釣れたら起こしてあげよう」と、母を起こすのを拒んでいました。

yuzuka:そこから港で、釣りをはじめるのですね。

大山:はい。並んで釣りをするわけにはいかないので、父と僕は別々のポイントで釣りを始めました。母は車の中で眠ったままでした。父が起こそうとしないのはもちろんですが、僕としても、もし母が目を覚まして酔いが冷め、「危ないからもう帰ろう」と言い出したら困ると思い、あえて起こさずに釣りを続けることにしたんです。

とはいえ、その日の夜釣りは全く釣れませんでした。僕は急いで家を出てきたので、パジャマの上にダウンを羽織っただけの軽装。3月1日の深夜から2日にかけての海はかなり冷え込んでいて、寒さと釣れない苛立ちから、僕は無言で竿を振っていました。

するとしばらくして、父が僕のところに近づいてきて「釣れたか」と声をかけてきた。そして拗ねている僕に、「今、海に何かがぼちゃんと落ちる音がしなかったか?」と聞いたんです。僕はイライラしていたので、深く考えずに「魚が跳ねた音じゃないの」と、軽く受け流してしまいました。

yuzuka:そのあと、お母様の行方がわからなくなった。

大山:はい。翌日も学校があるのでそろそろ帰ろうかと車に戻ると、母の姿が消えていました。最初は「コンビニのトイレにでも行ったのか」と考えましたが、歩けば相当な時間がかかる距離にしかありません。そこで、さきほどの父の「落ちる音がしなかったか」という言葉が頭をよぎり、「母は海に落ちたんだ」と思ったんです。

車は岸壁側に助手席が来るように止まっており、扉を開ければすぐ海という状態でした。今思えばそれもすべて計算された偽装工作だったのですが、当時はわかりませんでした。

yuzuka:そこから、大山さん自身もお母様を捜索されたのですか?

大山:探しました。街灯一つない港は、3メートル先も見えないほどの真っ暗闇。その中を、海に向かって必死に叫びながら母を探したのを覚えています。警察や救急に電話を入れ、20分ほど経つと大勢のパトカーや救急車が到着しました。それまで真っ暗だった港が、パトカーの赤色灯で一面真っ赤に染まった……あの光景は、今でも脳裏に焼き付いて離れません。

捜索が始まってさらに20分後、「いたぞ」という声が上がりました。乗っていた車の窓から外を見ると、そこには海面に浮かんでいる母の姿がありました。当時は父のことを信じ切っていたので、「お酒に酔ったお母さんが、車から降りようとして海に転落してしまったんだ」と、何の疑いもなく事故だと信じていました。

「母を二度殺された」。事件発覚から生まれた、親戚との確執

yuzuka:お母様が亡くなってから事件が発覚するまでの間、大山さんはどのような心境でしたか?

大山:「心にぽっかり穴が開いた」状態でした。正直、母が生きていた頃は勉強勉強とうるさかったのであまり好きではなく、反抗期もあって「いなければいいのに」と思った時期もありました。でも、失って初めてどれだけ大きな存在だったかを痛感し、親孝行もできていなかったので、悔やんでも悔やみきれない気持ちでした。

ただ、父親に「ここからはお母さんの分まで生きよう」と言われていたんですよね。だから、泣かないようにしていました。

yuzuka:そこから事件発覚まで、どれくらいの期間があったのでしょうか。

大山:小学校6年生の3月に事件がおき、発覚したのは中学2年生の2月。約2年後でした。

yuzuka:最初の逮捕は、お母様の件ではなかったと記憶しています。

大山:そうですね。父が最初に逮捕されたのは、他人のクレジットカードを使って物を購入して現金化する「詐欺容疑」でした。

yuzuka:逮捕された理由などは、聞かされていたのですか?

大山:いえ、なぜ捕まったのか、僕は知らされなかったんですよね。父が目の前で捕まった後、僕は親戚の叔母の家に連れて行かれました。毎日「父はなぜ捕まったのか」と問いただしましたが、叔母は困った顔をするばかり。僕はただただ父を心配していました。

yuzuka:お父様が捕まるまでに、何か前兆はあったのでしょうか?

大山:父が、家に帰ってこなくなりました。もともとすごく仲が良かったからこそ、突然距離をとる父を見て「僕が邪魔なのかもしれない」と感じてすごく苦しかったのを覚えていますが、今思えば「捕まるときに見られたくなかった」からではないかと思います。当時の父は捕まることが薄々分かっていて、僕の前で手錠をかけられるのだけは避けたかったんじゃないかって。

yuzuka:そこからお母様の件が発覚するまでは、どのような流れだったのでしょうか?

大山:中学3年生で転校した直後、いつものように叔母の家でテレビをつけると、父のニュースが流れていました。そこで初めて、父が1998年に自身の養父(僕の祖父)を殺害し、2000年に僕の母を殺害して保険金を騙し取っていたという報道を知りました。

yuzuka:その瞬間の心境をおしえてください。

大山:全身の力が抜けて、ドラマのように膝から崩れ落ちました。頭が真っ白になり、しばらく呆然とした後、ふつふつと怒りがこみ上げてきました。葬式で見せたあの涙も、家族の思い出も、すべて偽りだったのか。

大切な家族をバラバラにしたのは父親本人だった。その事実を知り、この手で殺してやりたいほどの憎しみが湧き上がりました。

親戚とも確執ができました。事件の翌日、叔母は僕に「お母さんは生きてるよ、病院に行こう」と嘘をついたんです。実際には警察署へ連れて行かれ、取り調べが終わった後に「実は死んでるんだよ」と伝えられました。今思えば、捜査のために必要なことだったのかもしれません。だけど当時の僕の中では、死んだと思っていた母が実は生きていたと思わされ、また死んでいたと突きつけられた。母を二度殺されたような感覚でした。

真面目な少年がはじめた非行は、「いじめられないための計算」だった

yuzuka:中学生で、かつ転校直後。学校にはその後、通えたのでしょうか。

大山:数日間休みましたが、行きましたね。でも、転校したばかりで友達も少なかったですし、居場所がない状況でした。グラウンドに一人でいると、校舎の窓から「人殺しの息子!」と叫ばれたり。あからさまにハブられていくのも感じました。「ああ、このままだといじめられるな」と。

だから、いじめられない手段として「計画的に」グレ始めました。僕は母が厳しかったのもあって、もともとは真面目だったんです。成績もよかった。だけど父のことがあってから勉強をしなくなり、いじめの件があってから急にタバコを吸い、わけもなく喧嘩をするようになりました。

強く見せるための計算としての非行でしたが、それがいつの間にか、行き場のないストレスや親への憎しみを一瞬だけ忘れられる「逃げ場」になっていきました。

はじまったホームレス生活と、繰り返すことになる自殺未遂

yuzuka:その後、17歳くらいまで非行が続いた。

大山:はい。暴走行為、バイクの窃盗、喧嘩での傷害……。でも、一番辛かったのは「帰る場所」がないことでした。中学卒業と同時に施設に入れられましたが、入所の条件だった高校を3日で中退しました。その後すぐにバイク窃盗で鑑別所に入り、出てきた時には施設からも受け入れを拒否され、ホームレスになったんです。

yuzuka:施設が受け入れを拒否した。

大山:はい。自業自得とも言えますが、非行少年は受け入れられなかったのだと思います。

そこからは、地元の公園の障害者用トイレで寝泊まりしていたのですが、このあたりから孤独による自殺願望が湧き始めました。

yuzuka:原因は複合的だとは思いますが、何が一番のきっかけとなったとおもいますか?

大山:孤独でした。仲間はみんな不良で、そこに居場所はある。共通点もある。だけどひとつだけ決定的に違うのが、みんなにはどれだけ暴れても、「帰る場所」があるんです。

遊んで「お疲れ様」と別れたあと、みんなは温かいお風呂やご飯がある家に帰るのに、自分は公園のトイレに帰る。そこからは、スーパーで手を繋いで買い物をする家族を見るだけで、死にたいと思うようになりました。なんで自分には、みんなに当たり前にあるものがないんだって。

そういえばと、その時にあることを思い出しました。父が逮捕前に自宅に帰って来なくなったときのことです。当時の僕は、母がいなくなった頃からお金が困窮していて、日常的に万引きに手を染めていたんですね。いつも一番出口に近い棚に並べてある、メロンパンを盗むのが習慣だったのですが、ある日いつも通りそこへ向かうと、母の後ろ姿に似た人がいたんです。

胸が締め付けられるような感覚になって、何も盗めずに当時暮らしていた自宅に戻って、泣きました。母が亡くなってから、僕はずっと涙を流さないようにしてきたから、今思えばあれが初めて泣いた日かもしれません。

「みんなに当たり前にあるものがない」という感覚からそういう出来事を思い出して、ああ、もう駄目だと思いました。

yuzuka:そこから自殺未遂につながるのですね。

大山:はい。一度公園で首吊りをしましたが失敗し、「次は薬だ」と考えました。飛び降りる度胸はなかったので、万引きした市販薬を860錠用意し、一気に飲み干しました。でも溶け切る前に拒否反応で吐いてしまい、吐瀉物の中に錠剤が混ざっているのを見ました。結局そのまま意識朦朧としてICUに運ばれ、処置をされる。そんなことを2、3度繰り返しましたね。

yuzuka:ご親族は、病院にはいらっしゃるのですか?

大山:はい。目が覚めるといつも、以前一緒に暮らしていた親戚が泣いているんです。「なんでこんなことをするん。昔のひろくんに戻って」って。親戚を裏切ったのは自分ですが、「僕を追い出した人間が何を言っているんだ」という恨みもあり、彼らの優しさを全く受け入れられませんでした。僕はそういう言葉を聞き流しながら、「次はお湯で流し込めば、錠剤がうまく溶けて死ねるだろうか」と、成功率を上げることばかり考えていました。

父との面会で、ようやく消えた「怒り」の感情

yuzuka:ホームレス生活と自殺願望。そこから、今は講演会をするまでに至っている。どうやって今の大山さんにたどり着いたのでしょう。

大山:変わるきっかけは、死刑が確定した父でした。ずっと憎くて向き合わないようにしてきましたが、死刑判決が出て迷いが生じたんです。本当に保険金のためだけに母を殺したのか。あの涙も思い出もすべて嘘だったのか。

記憶の中で、僕らは仲の良い家族だった。葬式で泣いていた父の横顔も、嘘だと思えなかった。だから、死刑執行される前に真相を聞こうと面会に行きました。そうしないと、事実は葬られてしまう。きっと後悔すると思ったんです。

会うまでは、会ったら怒りでどうにかなるんじゃないかと思っていました。でも、面会であった父はとても小さくやせ細り、変わり果てていました。父はただ僕に「ごめん」と何度も謝った。それで僕の中の怒りが、消えていくのがわかった。

その後、父から母を殺害した理由は「離婚されたくなかった」「自分のものにならないくらいなら」といった思いがあったからだという話を聞き、それが良いか悪いかは別として、僕の中でようやく納得がいきました。母への愛や家族の思い出は偽りではなかったんだと。

そこからは一切、非行も自殺の計画もやめました。

yuzuka:お父様と会って、感情を手放すことを決めたのですね。

大山:何年も人を憎み続けるのは、精神的に凄まじいエネルギーを使います。僕はそれまで、それに縛られて前に進めていなかったのだと気づいたんです。憎しみを手放すと、肩の荷が下りたようにメンタルが持ち直していきました。

当然、許せません。だけど、「許すことはできないし忘れることもできないけど、憎しみ続けるのはここで終わりにしよう」と決意しました。

yuzuka:そこから、ぴたっと非行や、自殺の計画を辞めた。

大山:はい。そこからは一切、そういうことはしていません。

父と会ってから、友人に相談したんです。「立て直したいから力を貸してほしい」と。すると彼の母親にも相談をして、「月に2万円で面倒を見る」と言ってくれた。しばらく彼の家に居候させていただき、住民票を置かせてもらいました。トイレに住んでいたときは住民票がないから働くこともできなかった。家ができて住民票を移せたことで、真面目に働いてお金を貯め、自分の部屋を借りて就職することができました。

活動開始後に殺到したのは、誹謗中傷。「後戻りできない」生き方を選ぶ理由

大山さんのご著書

yuzuka: その後、顔を出して事実を広める活動を始められましたね。きっかけはなんだったのですか?

大山: 最初の講演は早稲田大学でした。父の死刑確定から約1年後、当時は人前で話す自信がなく、お断りしようと思っていましたが、「経験をそのまま伝えてくれれば生徒の財産になる」と言われ引き受けました。

yuzuka:顔を出して語ることに、葛藤はありましたか?

大山:実は、覚悟はできていました。メディアで顔を隠して仮名で話しても、伝わるものも伝わらない。顔を出し実名で出すことで、この事件や、死刑制度について考えるきっかけを作りたいというインパクトを重視しました。

自分は「家族を作らない」と決めていましたし、顔を出して事実を知られたところで、自分以外の誰にも迷惑をかけないんです。

yuzuka:メディアに出始めて、周囲の反応はどうでしたか?

大山:誹謗中傷が圧倒的に多かったです。「親がそうだからって何をやってもいいのか」「万引きした時点でお前も犯罪者だ」「やはり父親の血をひいている」など。それで一度は鬱のようになりましたが、それでも世の中に伝えたいという強い意志と、応援してくれる人の声で続けてきました。

yuzuka:実生活にも影響はありましたか?

大山:実際に、働いていた職場をクビにされることは何度もありました。

最初は良くても、名前を調べられると事件が出てきちゃうんですよね。やんわりと断られるケースもあれば「うちはそういう問題のある人はおいておけないんだ」とおっしゃってくださるかたもいました。僕としては後者のほうがありがたいくらいでした。仕方のないことだなと思っています。

yuzuka:そこから風俗業界に流れ着くのですね。

大山:はい。この世界は独特で、「お前がやったわけじゃないだろう」「俺なんか人半殺しにして出てきたばっかりだぞ」という世界なんです。いい意味で僕の過去になんて、誰も興味がない。僕は今全身にタトゥーが入っていますが、それもこの世界では珍しいことじゃない。ここには差別がなく、居場所がある。居心地が良くて、だから働いています。

yuzuka: タトゥーを入れ始めたのは、いつからですか?

大山: 18歳からです。

yuzuka:大山さんは週に毎月、タトゥーを入れ続けているとお聞きしました。その理由は、なんなのでしょうか?

大山:タトゥーは、自分への「戒め」です。

僕は幼いころから、家族を持つことが夢だったんです。マイホームを買って、家族4人で幸せに暮らす。そんな未来を当たり前のように夢見ていた。

だけど今自分のような生い立ちで、もし大切な人ができて子供が生まれ、自分のせいで子供がいじめられたら、その傷は僕自身が受ける差別よりもずっと深いということを、自分が一番わかっています。

だから僕は、結婚しない、家族を作らないという決意をしています。その決意を後戻りできないものにするためにタトゥーを入れ続けているんです。タトゥーを入れれば、偏見がある。もし好きな人ができて、そのご両親に挨拶にいったとしたら、きっと反対される。子供ができても海やプールに行けないといった不便さもある。だから、入れている。

自分のブレーキにするためです。その決意は今も変わっていません。

今死にたいあなたへ。大山さんが伝えたいこと

yuzuka: 大山さんは過去に「死にたい」という気持ちを持ちながら、「それでも生きてゆこう」と思えた。今、大山さんの生きる糧となっているものは何ですか。

大山: 今の僕には、居場所があります。家があり、好きなことをやっています。講演活動もそうですし、風俗業界という自分を認めてくれる場所もある。

そんな環境の中で、今は1日1日、先に楽しみを「予約」して生きています。毎月の入れ墨、毎日のジム。先に予約した幸せのために生きる。僕は幸せを感じる「物差し」が、過去の経験のせいでめちゃくちゃ短くなっているんです。他の人が当たり前だと思うことでも、僕にとっては当たり前ではない非日常だから、小さなことでもすごく幸せを感じやすいんだと思います。

yuzuka:考え方の変化はありましたか?

大山:他人と比べるのをやめました。不幸比べはマイナスにしか作用しないと、痛感しているんです。自分の物差しで、目の前のことを測る。幸せを幸せだと気づく。そうやって、少しずつ人生が明るくなりました。

yuzuka:最後に今、この記事を見ている「死にたい」と思っている方へ、メッセージをお願いします。

大山: 周りと比べない。それが大切です。人の幸せを羨む気持ちはネガティブな作用しかない。キリがないんです。自分の物差しで目の前を見る。そうすると、拾うことのできる小さな幸せが見つかります。

そしてなにより、過去と一度向き合うこと。苦しい感情には、過去のどこかに理由があるケースが多いです。そこから逃げ続けていたら、解決しない。だから、時がきたらきちんと向き合ってほしい。

「過去と向き合って、区切りをつけ、これ以上は振り返らない」。

これができれば、未来は変わります。

時の流れに任せるだけでは解決できないこともあります。一度食い止まって、自分の中で「落とし所」を見つけてから、前を向いてほしいと思います。

過去を直視し、心の痛みの正体を見極めることは、当然苦痛を伴う作業だ。しかし大山さんは、逃げずに向き合うことで憎しみの連鎖を自ら断ち切り、運命の被害者であることを辞めた。

自分の人生を引き受ける。それは、背負わされた宿命を「自分のもの」として認め、その上でどう歩むかを自ら決めること。

それはある種の絶望かもしれない。しかし、希望でもある。

私たちは、過去を変えることはできない。だが、その過去にどのような意味を与え、どのような「落とし所」をつけるか、そしてそのうえで、どんな人生を歩むかは、自分自身で選ぶことができる。

今日一日を生きる。明日のささやかな幸せを予約し、そのしあわせのために、自分の足で一歩を踏み出す。その静かな決意の連続こそが、絶望の先を自分らしく生きぬくための、唯一の手段なのかもしれない。

聞き手/ 編集長 yuzuka

【Guest Profile】大山寛人(おおやま・ひろと)

1988年、広島県生まれ。 14歳の時、1998年の養父殺害および2000年の実母殺害の容疑で父親が逮捕される。実母の死が事故ではなく、保険金目的の殺人であったことをニュースで知るという壮絶な経験を持つ。その後、死刑が確定した実父との面会をきっかけに「憎しみの連鎖」を断つことを決意。現在は講演活動を通じ、自身の半生や死刑制度、犯罪加害者家族の現状を伝えながら、自らの足で人生を歩んでいる。著書に、「僕の父は母を殺した」がある。

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この記事を書いた人

エッセイスト/脚本家/作家。
ジャーナリスト、インタビュアーとしても活動し、現場に身を置くフィールドワークを重ねることで、人間の光と闇の両面を描き続けている。元・精神科看護師であり、風俗嬢としても5年ほど夜の世界に身を置いた経験を持ち、自身が自死未遂を乗り越えてきた当事者でもある。トー横の若者や夜の街、生と死の狭間にいる人々と向き合い続ける中で得た実感から、「誰も置き去りにしない言葉」を探求している。

著書に『埋まらないよ、そんな男じゃ。』ほか3冊。原作・脚本として『五反田ほいっぷ学園』『愛の炎罪』『今、晒してます』『沼堕ち』などを手掛ける。特に『愛の炎罪』では、Renta!ショートドラマ・アニメ大賞2025 総合大賞を受賞。フィクション/ノンフィクションを横断しながら、人の心を深く動かす言葉を紡ぐことをモットーとしている。

オーナーを務めるオンラインサロン、「yuzukaのオトナの保健室」では、性愛や人間関係など、オトナならではの悩みに仲間と向き合い前を向くコミュニティ作りを行なっている。

また、ひとつの幸せのかたちとして、「一度誰かと幸せになることを諦めた人」に向けた少人数制結婚相談所cotononeも運営。恋愛をこじらせた男女やシングルマザーへのサポートを中心に行っている。(現在若干名会員募集中)

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